司法の独立性をどう考えているのか
− 高浜原発停止にかみつく財界 −
週末ごとに5年を迎える東日本大震災の被災地に入っていた日々が終わり、災害とは人の有りようを問うものだ、と改めて感じている。
じつは少し前のこの欄に「私も大阪の自宅で〈このコラムに原発の電力は使用されていません〉なんて書いてみたいなあ」と書いたことが現実となった。福井県の関西電力高浜原発3、4号機について隣の滋賀県大津地裁が先日、住民から出された差し止めの仮処分を認め、原発の停止を命じたのだ。稼働中の原発停止は初めて。いまこの原稿を書いているパソコンから原発の電力は消えていった。
ところがその後、驚きの事態が起きた。当然、原告の関電は異議を申し立て、大津地裁の同じ裁判官がこの審理を担当することになったのだが、そうした中、関西経済連(関経連)のトップが裁判に噛みついたのだ。とりわけ副会長の角和夫阪急電鉄会長は「なぜ一地裁の裁判官によって国のエネルギー政策に支障をきたすことが起きるのか」として、「こういうことが起きないよう速やかな法改正を」とまで言ってのけた。
朝日新聞によると、阪急は原発の再稼働で鉄道の電気代が5億円浮くと踏んでいたという。当事者の森詳介関経連会長(関電会長)も「稼働停止で電気料金の値下げができなくなった。1日も早く不当判決を取り消していただきたい」。
関電はともかく、阪急といえば電鉄やデパートだけではなく、宝塚歌劇やメディアなど関西の文化に大きく関わってきた。グループにとって5億円がどれほどのものか知らないが、そもそも一裁判官を一裁判所とたとえるほどの司法の独立性をどう考えているのか。
こうしてみてくると、原発というものは、停止か稼働かに関わらず、人間の業と性(さが)を浮き彫りにしているように思えてならない。目先の金のためなら、法の理念だってねじ曲げようというさもしい心。その一方で、これほどまでの事故に直面しながら、なお原発を人の力でねじ伏せてみせるというこの傲慢さ。
やがて桜咲くふるさと。だが、その行く手を除染物を入れた黒いフレコンバッグに阻まれている人たち。そんなことには目もくれず、司法さえ悪しざまに言って札勘定に忙しい人たち。それが震災6年目の哀しく、悲しい姿なのか。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2016年3月22日掲載)
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