こちら大阪社会部 阪神大震災編(kindle版)
「あとがき」
大谷 昭宏
この「あとがき」は、2015年3月、あの東日本大震災から4年を過ぎて、また、被災地・東北に向かおうというというときに書いている。東日本大震災の被災地に足を向けるのは、今回でおそらく30回を超えるはずである。
だか、2015年から逆上ること20年、1995年に起きた阪神大震災については、それどころではない。発生から1年近くは、それこそ毎日のように、神戸に、そして芦屋、西宮、宝塚、阪神間の町に通っていた。そして、そのときの思いを、この「こちら大阪社会部 阪神大震災編」のあとがきにこんなふうに書いた。
<戦後50年、まさしく節目の年に私たちの国は、阪神大震災という未曾有の災害に見舞われた。この50年、私たちの国は4つの列島を橋やトンネルでつなぎ、山を削り、海を埋め立てた。そのことの先に確かに便利さはあった。しかし、その先に、幸福はなかったことをあの震災は教えてくれた…>
その阪神大震災から16年後の2011年3月11日、私たちの国は、それをはるかに上回る、死者1万5千人余り、行方不明者2500人余を出す東日本大震災に見舞われた。私自身、ジャーナリストとして生きていくなか、阪神大震災を超える大災害をいままた取材するとは想像だにしなかったことである。
そしてわが身を振り返るとき、「こちら大阪社会部 阪神大震災編」のあとがきに書いた<確かに便利さはあった。しかしその先に、幸福はなかった>という、あのときの感慨は果たして生かされたのかという思いにかられるのである。
東日本大震災と阪神大震災の最大の違いは、巨大津波での被害と、自然災害とは絶対に言えない福島第1原発の事故による被害である。除染で出た放射能汚染物を詰めたまっ黒な袋を見上げたとき、私はまさしく「便利さの先に、幸福はなかった」という思いを噛みしめるのである。
だが、この国は、いま再び原発稼働に大きく舵を切ろうとしている。これでもまだ懲りないのか、という言葉を浴びせる以外にないではないか。
日本という国は、全世界の地震発生の26%がこの国土で起きている。御嶽山のような火山噴火の7%もこの国で起きる。周辺の年間の台風発生は20余り、うち5、6個は国土に上陸している。そのかわり、きれいな海、山、川、そして四季折々の花々。私たちはそういう国土で暮らさせてもらっているのだ。だとすれば、その自然に対して畏敬の念を常に抱きつつ、より安全の形でこの国で生きていく。それが、先人から私たちへと引き継がれた思いではないか。ならば、そこに原発を、いままた稼働させるという選択肢は存在するのだろうか。
もう1点、これは私が阪神大震災の取材を通じていつも言ってきたことなのだが、被災地を訪ねる機会があったら、ぜひ1人でいい、そこで友だちを作ってほしい。被災地全部とつながり合うことなんて、取材で何度も訪ねさせてもらっている私だって不可能なことだ。ならば、たった1人でいい。その方と知り合って、思い出したときに電話をするなり、手紙を書く。それだけでいい。そのことで、いま被災地は何に悩んでいるのか、被災者のみなさんは何を望んでおられるのか、きっと身近にわかるはずである。
阪神大震災から20年、そして戦後70年。そんな年に、そんな思いでこの「こちら大阪社会部 阪神大震災編」を読んでいただけたら、と願っている。
(「こちら大阪社会部 阪神大震災編(大島やすいち)」あとがき kindle版)
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