忘れられない一冊
「入社試験の作文テーマ」
大谷 昭宏
「忘れられない一冊」と聞いて、すぐに心に浮かぶ一冊の本がある。だけど、タイトルも著者名も知らない。わかっているのは、詩集であったことと、文庫本だったことくらいである。
学生時代は大学紛争に明け暮れる日々。ろくに授業にも出ないなかで、勉強らしいことをしたと言えば、新聞記者になるための作文や小論文の演習だった。バリケードで封鎖された教室に記者のOBを招き入れ、みんなが一つのテーマで作文や小論文を書く。
その数年前、朝日新聞の入社試験の作文のテーマは「一冊の本」だった。さて、そのテーマで最高点を取った作文はいかなるものだったか。OB氏が紹介する。 ── 冬山に入って猛烈な吹雪に襲われた。雪洞を作って救助を待つしかない。3日、4日……。暖を取っていた固形燃料はとっくになくなった。手の届く範囲で雪の下から掘り出した枯木も底をついた。リュックの底には山に入るとき、たった一冊しのばせてきた愛する詩人の詩集がある。一頁、二頁……意を決して文庫本を引きちぎっては、かすかに残る火にくべていく。だが、それも残る頁があと一、二枚となった。そのときだった。「オーイ、オーイ」という声が聞こえてきた。吹きすさぶ雪の向こうに救助隊の影が見えた ──。
記者のOB氏は、「一冊の本」といえば、学生の大半が子どものとき出会った本か、先生に薦められて自分の将来に少なからず影響を与えた本のことを書く。「顔」というテーマで書かせたら多くの学生が「男の顔は領収書」という、ある作家の言葉を引用する。新聞社は間違ってもそんなありきたりの発想の学生を求めることはない。たとえ稚拙でもいい。自分にしかできなかった経験、自分にしかない発想を大事にしないさい、と言いたかったのだ。
タイトルも著者名も知らない、冬山の一冊の本。だが、そのとき受けた鮮烈な印象はメディアの世界に入って四十年余り、私の中で、いささかも色褪せていない。
さて、私が山に一冊の本を持っていくとしたら、『思い出トランプ』『父の詫び状』……早逝してしまったこの作家の作品を、私はわざと何冊か読み残して大事に置いてある。向田邦子さんの文庫本、であることだけは決まっているのだが。
(「週刊朝日」2012年7月6日号 朝日新聞出版)
|