最初の読者から
紙面を凌駕する行間と紙背
〜「南三陸日記」三浦英之著
大谷 昭宏
宮城県・松島
暦が3月から4月に変わった日、私は、三浦さんのこの本の1頁目を「南三陸ホテル観洋」のロビー喫茶で開いた。広いガラス窓の向こうには、前夜までの暴風雨が嘘のように、朝の陽光に光る志津川の海があった。カモメが窓辺をギリギリに飛んでいく。
津波に襲われながら、家族も家も無事だった渡辺宏美さんの一家を記した「無事で申し訳ありません」。
<「町を歩いていると、周囲に『あんたはいいちゃね。家も車も無事で』と言われている気がして、時々胸が張り裂けそうになるんです」
先日、少年野球の練習にユニホームを持っていこうとした息子の海くん(11)を叱った。
「ほかの子は着てないでしょ。もっと考えなさい」
そう言った後、急に涙が出そうになって、息子を背中から抱きしめた。
「ごめんね。何も悪くないのにね」──>
そこまで読んで、早くも本を閉じてしまった。新聞に連載中、毎週火曜日にこの記事にふれて何度も胸がつまり、ときには涙を流していたのに、一冊の本になったものを繙いても、また同じことを繰り返していた。
2011年3月11日以降、私はテレビのニュース番組の報道に追われて、映像の中にいたといっていい。波というより壁のようになった濁流に呑み込まれた夥しい命、家や車、巨大な船舶。それらを映し出す映像は、1000行、2000行もの原稿をもってしてもかなわない、と信じていた。だが、三浦さんの、新聞の行数にして40行から長くて70行の記事は、そんな私の思い込みを一瞬のうちに粉々に砕いてみせた。大袈裟でなく、新聞記者出身の身としてこういう記者がいたことを心底、誇らしく思ったのだ。「文字の力」「映像を凌駕する行間と紙背」……。こんな凡庸な言葉しか思い浮かばない自分をもどかしく思いながら、そう表現するしかない。
新聞がデジタル化されたいま、かつてのように記事をスクラップしたり、コピーすることはめったにない。だが、読んだ直後にコピーをとった記事がある。
「警察官の家」。女性を助けようとして、最期は濁流に呑まれた殉職警察官。地方支局、サツまわり、そして事件記者。私もまた多くの警察官に接し、様々なことを教えられてきた。三浦さんは
<駆け出しの時代の4年間、この家で毎晩のように夕食を食べた。何一つ変わらないリビング。警察官だけがいない>
。私がコピーした記事と本になった文章は、補筆したのだろう、一部違っているが、記事を読み進んで
<数年後、東京本社に異動した私は、気がつくと、ありふれた記者の一人になっていた。だから、ここに来られなかった。今の自分を見せることが怖かった>
というくだりまで来たとき、私は仕事先のホテルの一室、だれもいないのをいいことに、しばらく嗚咽していた。「ありふれた記者の一人になっていた」という表現が、わが身に重なって見えた。
じつはこの稿を書く前に、私は三浦さんに連絡を取らせてもらった。近々、四度目となる南三陸の取材に行くことになった。宿は三浦さんが9か月間、取材拠点としてきた「ホテル観洋」。一度、お会いできないかというものだった。だが、この時点で三浦さんは駐在を終え、ニューヨークへの転勤が決まっていた。そのとき、私はこの本の1頁目は志津川の海の見えるこのホテルのロビーで開こうと決めた。
昨日取材した南三陸歌津の漁師の言葉が蘇ってきた。
「新聞もテレビも、津波は何もかも流したなんて言わんでけれ。残るものは残っているちゃ」
数多の命と町を奪い去った津波は、その一方で、いつまでも手の中で温めておきたい一冊の本を生み出してくれた。
(「一冊の本」2012年5月号 朝日新聞出版)
南三陸日記 三浦英之 著(amazon)
http://www.amazon.co.jp/南三陸日記-三浦英之/dp/4022509694/
南三陸ホテル観洋
http://www.mkanyo.jp/
朝日新聞出版 最新刊行物:雑誌:一冊の本
http://publications.asahi.com/ecs/22.shtml