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生きとし生ける
社会の矛盾に、光を当てる仕事

大谷 昭宏


かけはし〜ハンセン病回復者との出会いから〜 小川 秀幸 著
定価 1575円
ISBN:978-4-7733-7643-2
近代文藝社


<三重テレビ放送は、こんなところにテレビ局が、と思うような津市の中心街から外れた坂の上にある。驚くほど小さな小さな局。そう言っては失礼だとするなら、まことにかわいらしいテレビ局である。小川秀幸さんは、このテレビ局の報道記者であり、番組制作のディレクターでもある。小さな、かわいらしい局とは対極にあるような大柄でのっそりした男である。その大きな男が小さな局でなし遂げた仕事のひとつが本書である>

 こんな書き出しで、著書のあと書きを書かせていただいた。本の著書はここに出てくる小川秀幸さんである。昨年の暮れも押し詰まったころ、遠慮がちに「これまでの仕事をまとめた形で、本を出すことになりました。ついてはこの本のあと書きはどうしても大谷さんに、と思っています。忙しいとは思いますが、ゲラ刷りを送りますので、なんとかお願いできないでしょうか」。事務所のスタッフ宛にこんなメールが届き、追いかけるように分厚いゲラ刷りが届いた。

 年末年始の忙しいときとはいえ、小川さんの依頼なら正月のお屠蘇を少し控えてでも、あと書きは書かせてもらう。再びそのあと書きから。

<小川さんとのおつきあいは古い。彼がまだ大阪の大学の学生だったころ、いまは亡き黒田清さんともども、彼が言い出しっぺの学園祭の催しに出向いて講演したことがきっかけだったように詰憶している。私がそうした学園祭に時間が許す限り出かけることにしている理由は、ただひとつ。素晴らしい人材に私たちメディアの世界にきてほしいからである。そこで蒔いた種が芽を出し、花を咲かせ、やがて実を結んでほしい>

 最初にふれたように小川さんは大柄でのっそりした男である。出身は確か三重の伊賀の方と聞いた。その彼が出身地、三重の独立U局である小さなテレビ局、三重テレビに就職した。地方の小さなテレビ局に入社した場合、そこを足がかりに、東京のキー局や、大阪、名古屋といった大都市の準キー局を目指す局員も多い。そんななか、大柄な彼は小さな局だからこそ出来る小回りのきく仕事を見つけて、十年余りにわたってコツコツと動きまわってきた。その一つがこの本なのだ。

 タイトルは『かけはし〜ハンセン病回復者との出会いから〜』(近代文藝社刊)。


 地方のテレビ局員はなんでも屋である。日々のニュース取材から、原稿書き、県議会中継の段取り、高校野球の地方予選の中継…。東京や大阪の局の人間のように、いつもハイヤーやタクシーがついてくれているわけではない。海岸沿いの道や山間の村をマイカーを駆って走りまわることも多い。そんな彼がここ数年、自分の取材テーマに選んでいたのがハンセン病回復者との出会いと、いまを、とりわけ地元、三重県出身者に焦点を合わせて取材し、報道することだった。

 本のなかから、日々の仕事の合間合間に、ハンセン病回復者がいまも暮らす、かつての隔離施設である療養所を訪ねる彼の姿と、そんな彼の仕事を温かく見守ってくれていたであろう上司の姿が目に浮かぶ。この仕事が実を結び、三重テレビは小川さんの制作で『かけはし〜元ハンセン病担当官の苦悩と喜びから』『石蕗の花咲くふるさとへ〜ハンセン病回復者 63年目の故郷』など、これまで4本の作品を放映してきた。

 ここでハンセン病に少しばかりふれておくと、1907年(明治40年)に早くも「癩予防ニ関スル件」が制定されたように戦前、戦中は怖い伝染病として恐れられ、患者は国によって強制的に隔離されて人里離れた療養所で生涯を過ごさざるを得なかった。だが、そこには、戦前の一等国の仲間入りへの思い、富国強兵政策が大きく作用していた。癩病患者がいるなどということは国の恥、とりわけこの人たちは、お国の役に立たないばかりか、病気を伝染させる厄介者という意識が強かったのだ。特に私が驚いたのは、三重県はそのなかでも患者隔離にはとりわけ強い思いがあった。そこには伊勢神宮を抱える三重県はこの国の「神都」との思いがあったという。神都にハンセン病患者などもってのほかという思いがあったのだ。それは戦後も続き、国も1958年、国際会議でハンセン病は隔離の必要がないとする意見が出たあともこれを無視、隔離政策を続けてきた。


 これに対して、元患者たちは国に対して損害賠償と正式な謝罪を求めて裁判を起こし、2001年、熊本地裁が元患者の主張を認めて国の敗訴を言い渡し、当時の小泉内閣は控訴を断念、元患者にお詫びしたことは記憶に新しい。

 その隔離政策がどれほど過酷で人権を無視したものであったかは、ここであらためて書く紙幅はない。ただ、ふるさと、家族の恋しさに、脱走を試みた患者への苛烈な監禁。厳寒の中で命を落とした患者は数知れない。さらに患者に強制された断種(ワゼクトミー)、不妊、堕胎手術。全国の療養施設から戦後になって発見されたホルマリン漬けの胎児の遺体だけでも、114体を数える。

 その隔離政策の苛烈さについて書かれた書物はこれまで多数あり、私も目にしてきた。小川さんのこの『かけはし…』の本で何よりも私が心を動かされたのは、その隔離政策に手を染めた、いや、手を染めざるを得なかった三重県の職員だった方に光を当てていることだった。県庁でハンセン病担当官をつとめた、いずれもいまは亡き、高村忠雄さんとその後継者の村田長次さん。本書の多くはお二人と回復者との交流、そしてその姿を取材する小川さんの思いで綴られている。

 国の施策とはいえ、癩予防法の名のもと、親子、兄弟を引き離す担当官。回復者の恨みはいかばかりだったか、想像に難くない。だが、実はこの元担当官こそが国が過ちを認める以前も、そしてその後も、回復者との交流につとめ、誰よりも回復者から信頼されていたことを私は不明にも、この書で初めて知った。生前の高村さんは小川さんのインタビューに答えてこんなことを話していた。

「泣き叫んでいる子どもを母親から引き離さなければならない。私も本当に泣きましたね…母と子の仲を僕らが引き裂いてきた、と。そういうことが再三、ありました。もう療養所へ連れて行くのはやめて、このまま家に帰ろうかと思ったことも度々、ありました」


 こんな文章にふれて、私は小川さんたちに招かれて講演に行った大学の学園祭で学生たちからメディアはどうあるべきかを問われ、不遜にも、こんなことを話したことを思い出して、これもあと書きに書かせていただいた。

<社会の「光が当たらない部分(社会の矛盾)に光を当てること」、あるいは「世の中には不当に割りを食っていながら、その不当性を訴える術さえ奪われている人たちがいる。その方たちに成り代わってその声を伝えてほしい」。それが私が抱いているあるべきメディアの姿なのだ>

 小川さんが光を当てた二人の元担当官もまた、国が過ちを続けるなか、その過ちに手を染めたと謗られ続けた「不当に割りを食った人々」だったのではないか。小川さんがそのことに思いを馳せてくれたことが何よりもうれしかった。小川さんはこの書のなかで、ハンセン病を追ってドキュメンタリーを作り続けてきた思いをこう書いている。「こういう番組を作るよりも、こういう番組を作らなくてよい社会をもっと早く作ることはできなかったか」。

 小川さんにはこういう番組を作り続けてほしい。小さな局にキラキラと光っている男がいる。
 
(月刊PL 2009年5月号より)



かけはし−ハンセン病回復者との出会いから(Amazon)
 http://www.amazon.co.jp/dp/4773376430/
ハンセン病 (Wikipedia)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/ハンセン病
三重テレビ放送
 http://www.mietv.com/


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