2世3世が語りつぐ残留邦人の苦労
− 「大地の子」も高齢化 −
あちこちにお招きを受ける講演会だが、その日を心待ちにしているなんてそうそうあるものではない。だけど少し前、大阪・堺市であった「『中国帰国者』について知る・聞く〜次世代に語りつぐ〜」は、そんな集いだった。私の基調講演のあとのパネルディスカッションに中国帰国者1世や私とともに、帰国者2世の伊藤勝義さんが並んだのだ。
勝義さんは、もう48歳。だけど私の中では、カツヨシだったり、勝義君、そして妹の春美さん(46)は、いまも春美ちゃんだ。下の妹、智子さんを入れて3きょうだいの父、勝美さんは中国残留孤児だった。敗戦時、旧満州からの逃避行の中、母親と死別した勝美さんは訪日調査で岩手に住む父親と対面。1982年、中国人の妻と勝義さんたち一家5人で帰国したのだが、初めての父親との生活になじめず大阪へ。当時、中学、小学生だった勝義さんたちと私は35年のおつき合いだ。
しっかり者で、私が「春美16歳の日本」の本も書かせてもらった春美さんにくらべて、友だち作りも苦手。一時はやんちゃもして、お母さんどころか、春美さんの手も煩わせた勝義さんだったが、数年前に介護福祉士の道を選んだ。もちろん中国語ならおまかせ。高齢化が進むうえに言葉が不自由な元残留邦人の訪問介護や病院への付き添いに走りまわる毎日という。
現場からの報告で勝義さんは「介護制度そのものを知らない方もいます」「認知症に気づくどころか、認知症への知識も不足しているのです」と、置き去りにされていく残留邦人の実情を語る。集いの前から「お兄ちゃん大丈夫かな」と不安そうだった春美さんも最前列でちょっぴり誇らしげだ。
そんな姿に、私の胸には「あの日の勝義くんが、あのときの春美ちゃんが…」といった思いばかりが行き来する。やや強引ともいえる私の指名でマイクを手にした春美さんは「きょうは若い方が大勢いることに感動しました。これからは、そんなみなさんと一緒に私たち2世3世が残留邦人の苦労を語りつぎ、今後をしっかり見守っていきたいと思います」と語りかけて、満席の会場から割れるような拍手を浴びていた。
強烈寒波が居座って、極寒の列島。そんななか私には、ひと足早く、春のたよりが届いた一日だった。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2018年1月30日掲載)
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