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心ほっこり元残留孤児の集い
少し風が冷たくなってきた先週末、ほっこりと心温まる集会に行ってきた。兵庫県尼崎市で開かれた「中国残留日本人への理解を深める集い」。おととしの秋までは厚労省の主催で全国主要都市をまわって大きな集いを開いてきたが、去年から各地の支援者の手に委ねられるようになった。
築数十年の公民館では、これまでの劇団によるお芝居ではなく、「国策に散った満蒙開拓団の夢〜石坪少年の手記から」は、なんとスクリーンに映し出された紙芝居。だけど気がつけば、ぐんぐん引き込まれていた。
いま88歳の石坪馨さんが生まれた兵庫県の寒村、高橋村(現豊岡市)は約500人が1944年、旧満州三江省に入植。だが45年8月、終戦直前に旧ソ連が侵攻、男たちはすでに兵隊に取られ、女性や子ども、お年寄りの逃避行。16歳だった石坪少年たちが銃を持ったが連日、暴徒に襲われ、開拓団は集団自決を決意。石坪少年は泣き叫ぶ子どもを背中にくくりつけて濁流にのまれていく母親たちを目の当たりにしたのだった。
紙芝居が終わって、舞台に立った石坪さんは当時、国内の食料も物資も底を尽き、日本政府は満州にすがっていたと説明。政府は国策で開拓団を入植させるにあたって男たちを兵役につかせることはないと約束していた。だが、敗色が濃くなると夫を、父を団から引き離してソ満国境に立たせて軍が国境を守っているように見せかけ、その間に関東軍は南下、入植者27万人がいた満州を見捨てたのだ。
「国策で満州に入植させ、国策で開拓団の男を国境に立たせて軍隊を助けたのです。はっきりしていることは、いざというとき、軍は決して国民を守らないということです」
会場に石坪さんの絞り出すような声が響く。
だけど、元残留孤児のお年寄りはみんな元気だ。81歳の女性が「9歳で孤児になって50歳で帰国するまで、41年間がどれほどつらく長かったか」と涙をあふれさせれば、80歳の女性は「私は45年6月の入植。終戦のたった2カ月前になんでやねんって、2カ月が悔やまれて悔やまれて」。会場は涙と笑いに包まれる。
国策にもてあそばれた方たちの集いをあとにすると、町では、まやかしの国難を掲げて始まった選挙戦が早くもヒートアップしていた。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2017年10月3日掲載)
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