大人がもっと知恵を絞れないのか
− 胸が痛む児童の死や虐待 −
事件を報道するのは私たちの仕事だが、何が嫌だといって児童の死や虐待を報じるときほど嫌なことはない。この子たちは生まれてからずっと痛いとか、熱い、苦しいという思いの中、人に生まれるということは苦痛でしかないという気持ちで死んでいったのかと思うと、胸がかきむしられる。
そして、そのたびに思うのは「大人がもっと知恵を絞れないのか」ということだ。
大阪府堺市で、4歳の長男が行方不明になっているのに児童手当を受け取ったとして30代の夫婦が逮捕された。夫は長男について「海に捨てた」とか「いまは言えない」などと供述しているという。この夫婦については4年前にも同居していた当時9歳のおいの行方がわからず、警察が捜査したところ「死んだので河川敷に埋めた」と供述。遺体を捜索したが、発見できないまま不起訴になっている。
夫婦はその前に住んでいた松原市で、長男の3歳6か月検診について市が6回も連絡したのに受診させないまま堺に転居。堺市も長男を受診させるため訪問や電話連絡を繰り返したが応じることはなく、市は府警に相談しながら、計34回も接触を試みてきたという。
こうしてみると今回、行政も警察も手をこまねいていたわけではない。だからこそ、あえて言いたいのだ。それでも必死の思いで救いの手を求めていた子どもたちの叫びは届かなかった。ということは社会に、大人に、まだまだやらなければならないことがあるはずなのだ。
もう10年以上も前、ある女性知事がつぶやいていた言葉が胸に浮かぶ。知事は自治体の乳児、幼児検診は子どもの健全な発育に不可欠だから実施する。だから、それを理由なく受診させない親は「児童虐待防止法のネグレクト(育児放棄、無視)とみなして罰則を科すことはできないかしら」と言うのだ。知事は、そのことによって虐待によるけがや、やけど火傷も早期に発見できるし、日常的に暴力を振るう親へのプレッシャーにもなるはずだという。
私たちはなぜ、みんなが少し力を入れれば、すぐにでもできることをやろうともしないのか。児童虐待のニュースを伝えるときに、私がいつもつけ加えている言葉を書いておきたい。
─子どもたちは自分から逃げ出すことも、110番することもできないのです。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2016年11月1日掲載)
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