悩みぬいて…高台に引っ越し
− 被災地への旅 6年目へ −
2016年3月11日は5年前の震災の日と同様、金曜日だった。そして私は、あの日と同じくテレビ出演のため名古屋にいた。ただ、あの日と違ってテレビは震災の特別番組一色だった。
この1カ月、週末ごとに被災地に入る日々が続いた。
「ウワァ、丘の上に、とんでもなくデカイ家だ」
宮城県南三陸町のカキ、ワカメの漁師さん(59)は津波で新築したばかりの家と作業場を流された。中学の体育館の避難所から手狭な仮設に。だが1年ぶりに訪ねると、取り付け道路までついた家がそびえ立つ。「南三陸版ビフォーアフターだ」。私の下手なジョークにみんなの笑みがはじける。
「国は帰還、帰還というけど、この状態でどうやって帰れるっぺか。いま、おらはフグスマの味方だ」
震災後、福島県川俣町に派遣された愛知県日進市の職員(56)は「この地に骨をうずめる」といって、いまは川俣町役場の課長職。何としてでも五輪の3年前、来年度中に町内の避難指示地区を解除にもっていきたい国に憤りをあらわにする。
その避難指示解除準備区域の40代半ばの男性は1人、ビニールハウスのなかにいた。放射線濃度が高いこの区域には当然、東電から農業補償が支払われている。
「けんど、やっぱ働いている背中を息子に見せてやるべ、と思って仲間と生花の栽培を始めたんだ」
だが、地域の人からは非難の嵐。農業補償は今年でいったん切れる。完全に除染がすんで、作物を市場に出せるまで補償を続けてほしいという特にお年寄りから「花で稼いで補償ももらって、二重取りでないべか。補償が延長にならなかったら、どうしてくれる」と冷たい言葉を浴びせられる。
隣の市から放射能に追われてきた人を、家々に泊めた優しさはどこに消えたのか、と男性は肩を落とす。
南三陸さんさん商店街、60代のすし店の大将。
「この1カ月、悩み抜きました。けんどやっぱ、みんなと一緒に行こうって」
来年3月3日、仮設の商店街は少し離れた高台に引っ越す。国立競技場設計の隈研吾さんがデザインしたお洒落な商店街。だが、家賃は4倍に。何より心配なのは町の人口の激減だ。
「けど、みんなで手をつないで乗り越えるしかないべさ」
震災から6年目、私の被災地への旅は続く─。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2016年3月15日掲載)
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