「中立性」お題目の下「孤立」するメディア
— 法曹界同様「孤高」目指すべき —
弁護士会館大ホールのイス席は埋めつくされ、入りきれない方のためにロビーに音声が流れている。2月28日に78歳で急逝された元最高裁判事で弁護士の滝井繁男さんの「お別れの会」が先週、大阪で開かれた。これまでこうした会には随分、出席しているが、平日の昼間、こんなに大勢の人が参列された会は初めてだ。
1度、新緑の京都郊外で昼間からお酒を酌み交わしたことがある。豊富な話題とソフトな語り口は、元最高裁判事という肩書をみじんにも感じさせなかった。弁護士として、最高裁判事として、司法と市民生活をぐっと近づけた方でもあった。
滝井さんが弁護団副団長をつとめた大阪空港騒音公害訴訟。裁判の結果、この空港は半世紀たったいまも、夜間の飛行は禁止されている。最高裁判事として消費者金融の、いわゆるグレーゾーンとされた高金利について明確に違法と判断。取り立て地獄に泣いていた人がどれほど救済されたことか。いまテレビでしきりに過払い金返還を請け負う法律事務所のCMが流れているのも、この判決があったからこそ。ひとつの裁判によって私たちの日常がどれほど変わるか。そのことを肌で感じさせてくれた方だった。
著書、「最高裁判所は変わったか〜一裁判官の自己検証」(岩波書店)の中に、私がしっかりと心に留めている言葉がある。
<司法は中立性を強調する余り、いささかあるべき位置から距離を置きすぎたのではないか。司法のあるべき姿を求めて孤高を持するつもりが孤立してしまったのではないか。そうだとすれば、その本来の役割を果たすことは到底できない>
これを私は、法曹界だけに発せられた言葉とは受け止めない。放送界、いや、メディアに関わるすべての人が心して聞くべき言葉だと思っている。いまメディアは政権から「中立であれ」というお題目のもと、その実、陰湿、陰険に批判を封殺されようとしている。メディアが中立性という名のもとに、それに屈してしまったとき、間違いなく視聴者、読者から孤立する。
市民と一番近いところにいなければならない司法とメディアの、本来の役割は何か。遺影のやさしい口もとは、そのことをずっと問いかけていく、と言われているようにも思えるのだ。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2015年5月12日掲載)
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