お母さん、お母さん、お母さんと
— 平和を夢見、特攻に散った若者たち —
4年前、2011年の夏、愛知県犬山市のご自宅の門から玄関に通じるスロープの両側には、天人菊、別名特攻花、出撃する特攻隊員に娘たちがそっと差し出したというその花が咲き乱れていた。板津忠正さんは、座敷のひとつに特攻隊員の遺書や遺影を所狭しと並べて、私たちを迎えてくれた。
特攻隊最後の生き残りといわれた板津さんが4月6日、亡くなられた。享年90。犬山市で営まれたご葬儀に参列させていただいた。
敗戦の色濃くなった昭和20年5月、板津さんは知覧から沖縄海域に出撃したものの、エンジントラブルで徳之島に不時着。戦後は生き残ったことを恥じる日々。だが、その一方でやるべきことがあるから生き残ったのではないか、と南の海に散った戦友の遺影や遺書を集め歩く。やがてそれが知覧特攻平和会館の開館につながり、初代館長となったのだった。
やさしいまなざしとともに凛として発せられる言葉は「かつての戦友を犬死にだとか、近ごろでは自爆テロだと卑下することは絶対に許せない」。と同時に「とりわけ最近は、いわれなく美化したり、讃美する。それもまた決して受け入れられない」というものだった。
特攻の母といわれた富屋食堂の女将、鳥濱トメさんに若き隊員が「この国にはきっと平和が来る。その日までぼくたちの分まで長生きして」と言い残したように、彼らほど平和を夢見た若者はいない。それが板津さんの口癖になっていた。
だが、安全保障や憲法論議。この国が姿を変えようしつつあるときに逝った板津さん。私たちの国はいま、どこへ行こうとしているのか。その流れへの賛否はこの際置くとして、板津さんのお宅で見せていただいた1通の遺書が、いまも深く心に残っている。
6歳から他の兄弟となんの分け隔てもなく育ててくれた継母に、18歳で散った隊員が書き残した言葉。こんな若者を2度と出してはならない。板津さんの柔和なお顔を思い出しながら、その遺書を記させてもらう。
<遂に最後までお母さんと呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが、何と意思薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい。さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん、お母さん、お母さんと>
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2015年4月21日掲載)
|