誰かにではなく自分で何ができるのか
— 被災地復興と淡路島5人刺殺と —
先週は東日本大震災から4年、凍えるような寒さのなかで私が出演している「スーパーJチャンネル」(テレビ朝日)は2日連続、宮城県南三陸町などから生中継。その合間を縫うようにして、兵庫県淡路島・洲本市で5人の方が近所の男に殺された事件についてテレビ、新聞、通信社からコメントの依頼があった。
地震の激しい揺れと、その後の巨大津波、さらには原発事故。未曾有の災害に、もがき苦しみながら必死に立ち向かっている被災地の人々。その一方、コメント依頼の趣旨は、今回殺害された方のなかには、ネット上で「人類の敵」などと誹謗中傷されたり、勝手に写真を撮られて9回も警察に相談していた人がいる。だが、警察は近隣をパトロールするにとどめ、結果として事件は起きてしまった。その警察の対応をどう見るか、というものだった。
片や被災から4年、いつまでも国や自治体に頼ってはいられないと、必死にはい上がろうとする人たち。一方で「相談があったのに、何もしなかった」と批判の矛先を警察に向けるメディア。その落差に暗たんたる思いがする。ストーカー、DV、児童虐待、それに今回のような近隣トラブル。そのたびに、警察は、なぜ動かなかった。児童相談所は、行政は、何をしていたのか。市民もメディアもいいかげん、そのステレオタイプ化した思考から抜け出せないものか。
今回の被害者の1人は9回も相談に行っているが、コメントを依頼していた記者によると、被害届の提出どころか、「男に口頭での警告ぐらいはしておこう」という警察の提案も断ったという。親戚ではないが、被害者も加害者も同じ名字が並ぶ小さな集落。「あの家が警察沙汰にした」と言われたくない。その気持ちはわからないでもない。だけど警察は相談されただけでは動きようがないのだ。
もちろん国や自治体は災害から市民を守る。警察は犯罪を未然に防ぐ。そうした責務がある。だが、それと同時に、市民は災害から自らの身を守る。わが身に降りかかりそうな犯罪に毅然と立ち向かう。だれかに何かしてもらうのではなく、自分で何ができるのか。みんながそんな思いを抱いてこそ、はじめて成熟した大人の社会が出来ていく。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2015年3月17日掲載)
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