「人」か「ヒト」か問う判決
— DNAか「夫の子」か —
最高裁が1、2審の判決を見直すときに開くことが多い弁論を行なったというニュースを報じながら、私は長年、取材を続けている中国残留孤児(邦人)の方々の顔を思い浮かべていた。
最高裁は、DNA鑑定によって血縁関係がないとわかった父と子の法律上の関係を取り消すことができるかどうかで争った裁判で9日、弁論を開いた。北海道と関西の女性が夫と婚姻中にほかの男性とも交際。子どもを出産して夫の子として育てたが、目ざましく進歩したDNA鑑定によって99.99%夫の子ではないことが判明。父子関係の解消を求めて提訴した。
民法では、「婚姻中に生まれた子は、夫の子」と定めてきたが、この裁判では1、2審とも「DNAは究極の事実」として、妻が交際していた男性を父と認定。これに対して夫は「私こそが父。子どもに名前をつけ、パパと呼んでもらったこと、一緒に風呂に入ったこと。楽しくて仕方ありませんでした」などとして上告。最高裁に判断を委ねたのだ。
「落葉帰根」。敗戦時、厳寒の旧満州に置き去りにされ、その後、日本の肉親の元に帰ってきた孤児たちが折に触れて口にする中国の故事だ。落葉が木の根に帰るように、人は血のつながった親のもとに帰ることこそ幸せなのです──。
その一方で、侵略者だった日本人が置いて行った子どもを慈しみ、わが子同然に育てて、あの文化大革命のときも「東洋鬼(トンヤンキー)の子がいるだろう」という追及に体を張って守ってくれた中国の養父母。それでも、日本で肉親探しが始まると落葉帰根。日本のパーパー、マーマーの元に帰りなさいと、親探しの手がかりにと大事にとっておいたカンザシや色あせた写真とともに送り出してくれた。「いまも大陸に向かって手を合わせています」と涙ぐむ孤児も多い。
家族とは何か。父と子、母と子とは何なのか。究極の科学的鑑定なのか、それとも、「人」という文字の字源が示すとおり、互いに支え合ってそこに育まれた情愛なのか。この裁判は、私たちが「人」なのか、それとも、「ヒト」なのかを問うているようにも思う。
判決は、来月17日に言い渡される。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2014年6月17日掲載)
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