命と向き合う「体験する」映画
— 「遺言 原発さえなければ」 —
3時間45分という長編の映画を体験し、このとんでもなく長い映画の監督をインタビューしてきた。
「遺言 原発さえなければ」(豊田直巳、野田雅也監督)の豊田監督。あえて「映画を体験」と書いたのは、映画を見た俳優の中村敦夫さんが「この映画は見るものでなく、体験するものだ」と語ったという。まさに絶妙の表現だ。
豊田さんが福島にかけつけたのは震災の翌日。福島第1原発に近づくと、いつも携行している3台の放射能測定器は針が全部振り切れてしまった。だが、その高濃度の放射能は風に流され、後に全村避難となる飯館村に降りそそいでいたのだ。そのときから800日。延べ250時間、豊田さんたちは、この「日本一美しい村」といわれる飯館村を中心にカメラを回し続けた。
映画には、ナレーションも音楽もない。人々が語り合い、笑い、泣く声が流れる。牛やネコが、いつもどこかにいる。遠くでウグイスが鳴いている。だが、そんな村が全村避難の事態に陥る。牛を処分するということは、生計の道を絶たれることを意味する。
その飯館の人々に悲しい一報が届く。南相馬市に住む酪農仲間が自殺したのだ。牛舎の壁にはチョークで「原発さえなければ」の遺言。映画の題字は、その壁の文字を使った。この酪農家だけではない。2年前、孫やひ孫に100歳を祝ってもらった102歳のお年寄りが「長生きしすぎてしまった」と首をつり、一時帰宅で久しぶりのわが家に戻った女性がその夜、庭で焼身自殺している。
全編、そこに流れているテーマは命である。豊田さんは「原発被災者の方は、原発によって自らの命が危険にさらされてしまった被害者であると同時に、子どもや孫、そして大事にしてきた牛。身近な命を危険にさらしてしまった加害者。その二重の苦しみのなかにいるのです」という。
福島の震災による死者は、津波などによる直接死より自殺を含めた関連死がすでに上回っている。
映画は命と向き合い、命を見つめることなく原発を語ることの愚かさを体験させてくれる。
(日刊スポーツ「フラッシュアップ」2014年4月29日掲載)
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