今生きている現場に向き合うという課題
— 尼崎連続変死 —
「もう何度も現場に足を運んだのでしょう」「連日、取材で大変でしょうね」。こんな質問をこのところよく受ける。だが、私は一度も現場に行っていない。足が重いのではない。心が重いのだ。
兵庫県尼崎市の民家の床下から次々に遺体が発見され、遺棄された遺体はおそらく7体以上になるのではないか。沖縄の断崖から転落死した男性を含めると一体、何人が事件に巻き込まれているのかわからない。こんな事件が連日、報道されている。
被害者は、いずれも昨年、同じ尼崎の貸倉庫で発見されたドラム缶詰め死体遺棄事件で起訴された角田美代子被告(64)と関わりのある人たちだ。新聞やテレビが描く角田被告を取り巻く相関図は広がる一方である。
事件取材を長年、生業にしてきた私がなぜ、こんなドロドロとした凶悪事件の現場に飛んで行こうという思いに駆り立てられてないのか。もちろん被害に遭われた方々に対してお気の毒という思いは他の事件同様、強く持っている。だが、しかしだ。一体、このような事件はどうしたら防げたのか。相関図を眺めていても皆目、浮かんでこない。
新聞やテレビの事件報道は、報道することによって、例えば児童虐待だったら、行政のシステムはいまのままでいいのか。ストーカー事件やDVだったら、現行の法律や制度に不備はないのか。いじめ自殺だったら、学校や教育委員会の姿勢はこれでいいのか。そうしたことを問いかけて、なんとか同じような事件の再発を防ぐ。そのことによって命を奪われた方の霊に報いる。それに尽きるはずだ。
だが、悪の権化となった女に隷属させられた人々が、あるときは被害者になり、その被害者が今度は加害者になる。そうした中にからめ取られてしまった人たちが、その人間関係から飛び出して社会に助けを求めてくることは、現実には不可能に近い。ここまで被害が拡大する前に、警察は端緒をつかむことはできなかったのかと言っても、それを求めるのは酷だ。
はっきり言って、被害者の方々には失礼かもしれないが、格差がどんどん広がって行く社会にあって、自分たちと関わりのない世界で起きていることには、さわりたくもない、目を向けたくもない。そうした世間の流れが、かくも大きな事件を引き起こしてしまったのではないだろうか。
事件の現場ではない。いま私たちが生きている社会という現場に目を向けない限り、このような事件は防ぎようがない。事件報道は、いままでにない、重い課題を突きつけられているのかも知れない。
(日刊スポーツ・西日本エリア版「フラッシュアップ」2012年10月30日掲載)
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