集団的自衛権の解釈問題
〜 創価学会の「見解」は政教分離原則に反するのか
吉富 有治
安倍晋三首相がめざす集団的自衛権は憲法改正によってなすべきか、それとも解釈だけで可能にしていいのか。この問題は世論だけではなく与党内でも意見が割れている。慎重な態度を崩さない公明党に対して、集団的自衛権を早期に実現させたい政府・自民党は駆け引きや説得を続けている。新聞報道などによると、公明党は連立からの離脱までは考えないが、議論を先送りにして時間切れを図る考えなのだという。
そんな中、公明党の支持母体である創価学会は5月16日、集団的自衛権について「本来の手続きは、一内閣の閣僚だけによる決定ではなく、憲法改正手続きを経るべきだ」とする見解を公表した。朝日新聞の質問に学会広報室が答えたものであるが、学会が集団的自衛権に批判的な意見を述べたことで、政府も世間も過剰な反応を見せた。中谷元・元防衛庁長官はBS日テレの番組で「一宗教団体のコメントとしては、傾聴に値すると思うが、日本は民主主義なので、特定の宗教団体のコメントが政策決定に影響を及ぼすことはないと思う」とコメント。自民党の石破茂幹事長は記者団に対して「公明党の判断に主体性がなくなり、支持母体の言うままということもないだろう」と語り、暗に公明党と創価学会を牽制した。
学会の「見解」について過剰な反応を示したのは政界だけではない。ネット上でも批判的な意見を見かけることが多くなった。内容は「宗教団体が政治にモノを言うのは憲法に定めた政教分離の原則に違反するのではないか」というものだ。なるほど、今回の創価学会の見解は一見すると政教分離に反するように思えてくる。
政教分離は普遍的な原則があるのではなく、世界の例を見ても中身は多種多様である。国家に対して政治的なアプローチを宗教に一切認めない原理原則を課した国もあれば、イランのように宗教と政治が一体化した国もある。ご承知のように、戦中戦前の日本は国家神道を国民統合の柱としていた。では、現在の日本はどうなのか。
憲法第二十条第一項には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」とあり、これが我が国の政教分離の根拠になっている。この条文の政府見解としては、第63回国会において、当時の佐藤栄作首相が春日一幸衆議員の「宗教団体の政治的中立性の確保等に関する質問」に対する答弁がある。その個所を抜粋すると「(中略)すなわち、政府としては、憲法の定める政教分離の原則は、憲法第二十条第一項前段に規定する信教の自由の保障を実質的なものにするため、国その他の公の機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨であると解しており、それをこえて、宗教団体又は宗教団体が事実上支配する団体が、政治的活動をすることをも排除している趣旨であるとは考えていない」ということであり、現政権もこの見解を踏襲している(自社さ連立政権における大森政輔内閣法制局長官が同趣旨の国会答弁をしている)。
要するにこれは、宗教団体が政治活動や政治的発言をしてはいけないというものではなく、国家権力が特定の宗教団体に政治上の権力を行使してはならないという意味である。つまり、政教分離原則で法の網をかけるのは宗教団体ではなく、国家権力の側なのだ(憲法学会もこの通説をとるが、もちろん異なる説もある)。現在、日本政府がこのような政教分離原則の立場をとる以上、創価学会がきわめて高度な政治的発言をおこなっても「憲法違反だ」という批判は的外れということになる。創価学会に限らず、他の宗教団体でも政治的なメッセージを発する事例は少なくない。中には、核武装の保有といった超タカ派的な発言をする宗教団体も見受けられるが、これにしても政教分離に反するものではなく言論の自由の範囲内なのである。
断っておくが私は創価学会員ではない。親族や友人に学会員は多いが、私自身は創価学会にはあまり良い印象は持っておらず、そのため距離をおいている。これまでにも批判的な記事も書いてきた。だが好き嫌いは別として、言論に関わる見当違いな批判には答えておこうと、今回このコラムを書いた次第である。
(2014年5月22日)
集団的自衛権(Media Watch Japan)
http://mediawatchjapan.com/集団的自衛権-論点整理/
創価学会(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/創価学会
政教分離原則(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/政教分離原則