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橋下 vs. 週刊朝日 結果は週刊朝日の惨敗
〜 ついでに日本のマスコミ界にジャーナリズムは存在するかまで問われる事態に


吉富 有治


朝日新聞社
朝日新聞社


 橋下市長が週刊朝日の連載記事に噛みついた。ついでに親会社の朝日新聞にも噛みつき、こちらは取材拒否まで宣言した(現在は解除)。ところが、噛みつかれた週刊朝日は反論するどころかあえなく白旗を挙げ、連載を一回で中止するという前代未聞の事態となった。


 問題のルポはノンフィクション作家の佐野眞一氏のペンによる『緊急連載ハシシタ 橋下徹は救世主か衆愚の王か』。

 この連載の目的を佐野氏は「もし万々が一、橋下が日本の政治を左右するような存在になったとすれば、一番問題にしなければならないのは、敵対者を絶対に認めないこの男の非寛容な人格であり、その厄介な性格の根にある橋下の本性である」と記している。そして、その「厄介な性格」の根っこを探る方法論としては、橋下氏の政治的手法からアプローチするのではなく、あくまでも「橋下徹の両親や、橋下家のルーツについて、できるだけ詳しく調べあげなければならない」と血脈や出自から調べあげるとまで言い切っている。

 だが、この佐野氏の考えは危険である。先祖のDNAは生物学的な特徴を子孫に残しても、その子孫の生き方や思考まで規定するものではないからだ。橋下氏がツイッターなどで「血脈主義は身分制度の根幹であり、悪い血脈というものを肯定するなら、優生思想、民族浄化思想にも繋がる極めて危険な思想だと僕は考える(中略)」と反論するのも当然だろう。ルポの中段では大阪維新の会の知られざる実態に触れていただけに、このような差別的な表現のおかげで連載そのものが中止になったのは残念と言わざるをえない。


 さて、橋下氏は週刊朝日への批判と同時に、この連載記事の是非をめぐり大阪市政記者クラブの記者たちと議論することも求めた。朝日新聞社には会社としての見解を求め、ルポにあるような"優生思想"がマスコミとして受け入れられるかを他社の記者にも問うたのだ。

 10月18日に行われた大阪市長の定例記者会見。橋下氏との議論はこの場で行われた。当日は私も参加し、記者と橋下市長とのやり取りをこの目で確かめてきたが、はっきり言って建設的な議論にはならなかった。記者たちは橋下市長の剣幕に押し切られ、明確に反論できる者は皆無。週刊朝日の連載内容について、親会社の朝日新聞はどう責任を取るのかと問われた朝日記者も「子会社でも編集権は別」と主張するのが精一杯、ほかは何を聞かれても「答える立場にない」の一点張りだった。

 確かに橋下氏が言うように、このルポが「もはや言論の一線を超えている」のは一部事実だとしても、「週刊朝日は朝日新聞の100%子会社。カネを出すのなら(編集にも)責任をもつべき」という主張は違う。マスコミ以外の民間会社なら「カネを出す代わりに口も出す」のは常識だとしても、ジャーナリズムの世界は「カネは出すが、口は出さない」が原理原則。不当な言論介入を避けるために経営権と編集権は明確に分離されているからである。

 「カネも出すが、意見も言わせてもらう。場合によっては記事にも文句をつける」では健全なジャーナリズムなどは育たない。この主張がまかり通ると、カネのために言論が左右される結果にもなりかねない。新聞社が他社や特定人物からの影響を避けるために株式を非公開にしているのはそのためである。「カネは出すが編集には介入しない」という態度がマスコミ経営陣のあり方であり、「カネは出してくれ。しかし、記事には文句をつけるな」が編集サイドとしての矜持なのである。


 一般の企業にすれば、なんとも身勝手な論理かもしれない。だが、ジャーナリズムの健全性を保つには、資本と編集の分離は不可欠なのである。これは朝日新聞社内だけでなく、別会社の週刊朝日との関係でも同じことが言える。親会社の朝日新聞が資本を出していても、編集には不介入がジャーナリズムを生業とする新聞社としての正しい姿であり、「カネを出すなら文句もつけられるだろう」という橋下氏の主張こそ、本来は的外れなのである。

 その原則に従えば、橋下氏は朝日新聞を相手に喧嘩するのではなく、まずは週刊朝日や署名記事を書いた佐野氏を相手にすべきだった。私も橋下氏には「佐野氏に会うべきではないのか」と意見させてもらった。橋下氏は「密室ではなく公開の場でなら会う」と約束してくれたが、連載が中止になったいま、その実現も難しい。

 ただし、ジャーナリズムにおける資本と編集の分離原則については、勉強家の橋下氏なら最初からわかっていたはずだ。わかっているのに親会社の編集責任まで問うたのは、いまのマスコミ界の実態として、この分離原則が不透明になっていることを熟知しているからだろう。記者たちが橋下氏に明確に反論できなかったのも、日ごろ、経営サイドや広告出稿者が記事に何かと口を挟んでくる現状にうんざりしているからではないのか。記者にすれば、いわば痛いところを突かれたのだ。


 今回の騒動はメディアの暴走だけが問われたのではない。日本のマスコミ界にどれだけ健全なジャーナリズムが存在しているのか、その根源的な問いまで迫られたのだ。なお、10月23日発売の週刊朝日は「おわびします」と題して、今後、記事作成の経緯などの検証を進めるとしている。報道機関として読者の信頼を回復するには、それが一番の近道である。

(2012年10月23日)


「橋下VS朝日」から浮き出た報道の問題点(NAVER まとめ)
 http://matome.naver.jp/odai/2135095665163766301
連載中止の週刊朝日「謝罪」までのスッタモンダ内幕7時間(女性自身)(livedoor ニュース)
 http://news.livedoor.com/article/detail/7069602/
橋下徹(@t_ishin)(Twilog)
 http://twilog.org/t_ishin/asc

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