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社会部育ちの悲しく哀しいこの姿

大谷 昭宏

さくら


 この春は、大阪も東京も遅くていい。東日本から先に訪れてほしい。心底、そんなことを思う春は、いままでなかった。3月11日の東日本大震災以来、憑かれたような日々だった。未だ被災地を訪ねることはできていないが、震災特別番組や通常のニュース番組の拡大で1日、8時間もテレビ局のスタジオに座っている日もあった。ようやく少し落ちついてこうして原稿を書けるようになった。


 つとめて平静を保つように心掛けたつもりだ。被災地からの中継の掛け合いで、胸がつまりそうになったこともあった。福島第一原発の事故で、東電の対応に声を荒らげたくなるのも、ぐっと堪えた。ガソリンがないのに避難指示を出して、その後の対応策もないことに憤りを感じても、言葉にすることはなかった。雪が降りそそぐなか、遅々として届かぬ緊急物資に苛立ちを感じながらも、できるだけ急いでほしいと言うに止めた。

 いま、やらなければならないことを必死になってやっている人。いま、やれる限りのことを精一杯やっている人に、節電で暖房を落とし、足元が冷えてくるとはいえ、テレビ局のなかから発する声ではないと思ったからだ。振り返ってこの2週間、心の底から怒りを爆発させ、罵声に近い言葉を浴びせたのはたったの一度だったように思う。

 いまの時期、やってはならないこと、やるべきではないことを平然とやる人に私は許しがたい憤りを抱いた。そのたった一度がプロ野球開幕をめぐる醜態であった。


ボールとバット


 話は飛ぶが、この東日本大震災について書かれた文章はいくつか目にした。そのなかで心に残った一文は作家の藤本義一さんが3月26日付けの日経新聞文化欄に寄せた「一人の友を無言で語る」というものだった。あれだけの作家が、この未曾有の大災害を前にして2日がかりで書いた原稿という。自らも体験した阪神淡路大震災にふれ、話は半世紀以上も前のあの戦争時の空襲に及ぶ。当時、中学生だった藤本さんは終戦直前、大阪の大和川鉄橋を6人で渡っていて突如、遊び半分とも思えるグラマンの機銃を受ける。伏せて鉄橋にしがみついたのに、先頭にいたK君だけが即死した。それから半世紀以上がたつが、藤本さんたちは当時、K君と一緒にいた5人のうち、いまも健在な3人で毎年集まる。それは「K君に対しての守らなければならない義務なのだと考えている。災害で失った友人に対する気持ちもまったく同じと考えていいだろう」と、藤本さんは書き、この一文の最後をこう締め括っている。「人間、生きていくために、いつも生きることを教えてくれた人を思い出さなくてはいけない」。

 やがて3万人を超えるだろうと見られる震災で失われた命。難の外にいた私たちに、生きていることを教えてくれた命。その命に見せるべき私たちの佇まい、礼節は単に生きていくことだけはではなく、生き方もまた含まれると私は思っている。間違っても失われた命に対して、いまするべきではないこと、決してしてはならないことをやってはならない。

グローブ


 話を戻して、ならば、あのプロ野球開幕を当初は予定通りと主張し、旗色悪しとみるや、たったの4日繰り下げで誤魔化し、加えてナイター自粛というペテンで逃げようとしたセリーグはなんだったんだ。デーゲームにしたところで、東京ドームで照明を使わずにどうやって試合をするんだ。危うく騙されるところだった。結果、いやいやながらパリーグと同じ4月12日の開幕としたが、この醜態の主役だった輩たちは、失われた命に対して礼節を欠いたというに止まらない。人の生き方として下司下品と言うしかない。

 メディアのトップに君臨している(と本人が思っている)84歳は、開幕延期を主張する選手会の新井貴浩会長(阪神)の「野球で勇気づけようという気持ちはぼくらも一緒だ。だが、それがいまの時期かと言えば、違うと思う」と言う言葉を「俗説」と切って捨てた。こんなご老体にくらべて新井選手の言葉がいかに当を得ていて、慎み深いことか。阪神淡路大震災のとき、震災2日目か3日目に「被災者を勇気づけたい」とパンクロックのバンドが三宮でドンチャカやって被災者に石を投げられ、叩き出されたことを思い出す。いくら勇気づけたいといっても、この震災の通夜の席で花笠音頭を踊るバカはいない。

 目の前の金と、死ぬまで放したくない地位のことしか頭にない老醜は見ぬふりすればすむ。だが、私が断じて許せない、とこの問題で語気を強めてしまったのは、滝鼻卓雄巨人軍オーナーと清武英利球団代表のことが頭にあったからだ。

 東京と大阪の違いはあるが、二人とも私と同じ社会部育ちである。滝鼻氏は、私よりかなり先輩。司法担当が長く、私が社会部記者だったときは最高裁担当だった。優れた法知識とバランス感覚に富んだ記者だった。清武氏は私より若いが、社会部時代、大手証券会社への損失補填を特ダネで報じ、その不当な大証券への多額税投入に怒りのキャンペーンを展開した正義感あふれる記者だった。ともに滝鼻氏は東京、清武氏は中部本社の社会部長経験者でもある。

 その滝鼻氏は「開幕はお上が決めることか」と言い放った。なるほど一理ありそうに見える。ならば、巨人が決めることに何の理があるというのか。清武氏は「野球は経済活動だ」と、老体の言うことの鸚鵡返しだ。

 何より哀しいのは、お二方とも、社会部育ちということは人の死にことのほか思いがあるはずだということである。私もそうであるように、社会部の記者は人の死、それも事件や事故、そして今回のような災害。日常的に起きるものではない、不慮の死と向かい合うことが多い。言い換えれば、それが社会部記者の仕事であり、宿命かも知れない。

 それが老害としか言いようのないトップににじり寄り、すり寄る。1プロ野球の球団のオーナー、代表というのは、社会部記者として己が歩んできた道、社会部記者として培われてきた生き方を否定してなお、余りある地位なのか。その地位のために、瞬時にして失われた命、いまなお、わが子、妻、夫、父、母の名を海に向かって叫んでいる人々、原発の恐怖に怯える日々を送る人を悲しませ、傷つけていることに、何の痛みも感じないのか。社会部記者として、いや、人間としてのこれまでの生き方をねじ曲げてしまうことに、痛痒も恥じらいも感じないのか。


 それならそれでいい。ならば、二度と社会部記者であったことは口にしないことだ。その過去を封印してほしい。それが生きていることを教えてくれた人々へのせめてもの礼節である。疲労が極限に達するなか、いまなお、被災地で取材を続ける後輩の記者たちへのせめてもの節度である。

(2011年3月28日)


取材ノート


プロ野球の開幕延期、節電問題(Yahoo!ニュース)
 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/311eq_professional_baseball/
滝鼻卓雄(Wikipedia)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/滝鼻卓雄
清武英利(Wikipedia)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/清武英利

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